コラム 明治の特許制度

第1回内国勧業博覧会に出品された臥雲辰致(1842-1900)の「ガラ紡」(和式綿紡機)は、「本会第一の発明品」との高い評価を受けた。しかし、構造が簡単だったため、模造品が多数作られることとなった。結果、彼の生活は困窮を極めてしまう(そのような状況の中でも、ガラ紡の改良品を第2回内国勧業博覧会に出品し、進歩二等賞を得ている)。その後、出資金の不足で故郷での発明活動ができなくなったため上京し、内国勧業博覧会の審査官大森惟中の世話になったこともある。

臥雲辰致が大きな栄誉を受けたにもかかわらず、このような状況に陥ったのは、1877(明治10)年当時、日本には発明家を保護する制度がなかったためである。確かに、日本の特許制度の嚆矢としては、1871年に専売略規則が公布されていた。しかし封建制度が残存していた当時の民情、当局者の運営体制の問題、外国での特許不要論(かえって技術発達の妨げになるという説)から、翌年停止となった。

晩年の臥雲辰致(宮下一男 『臥雲辰致』 郷土出版社(1993)より)

その後、西洋諸国の実績が明らかになるにつれ、国民の発明に対する関心も高まり、1873年のウィーン万博の際の国際会議では、特許の有効性が確認された。また、発明者への褒賞としてだけではなく、外国貿易の実情に即し、日本の産業保護のために必要であるとの意見もあり、農商務省工務局に入った高橋是清の尽力により、1885(明治18)年「専売特許条例」が公布・施行され、その後の特許法へと続くのである。外国の技術を取り入れる段階だった日本は、外国人の申請を認めなかったが、1899(明治32)年には、不平等条約改正の駆け引きの中で、工業所有権の国際的保護を定めたパリ条約にも加わる。

なお、臥雲辰致は、その功績により1882年に藍綬褒章を授与され、他の発明品によって生活に余裕が生まれた後、1900年にその生涯を終えた。

⇒国際的な特許制度については、コラム「国際的な特許制度」参照

参考文献:

市川一男 「日本の特許制度-4-」 (『パテント』 16巻10号 1963.10 <Z14-185>)
市川一男 「日本の特許制度-6-」 (『パテント』 16巻12号 1963.12 <Z14-185>)
古賀規矩之 「日本の特許制度の歴史的概観」 (『パテント』 16巻10号 1963.10 <Z14-185>)
中山茂 「博覧会と特許」 (吉田光邦編 『万国博覧会の研究』 思文閣出版 1986 <D7-71>)
『日本の「創造力」 : 近代・現代を開花させた四七〇人. 第4巻』 日本放送協会出版 1993 <GK13-E574>