1893年シカゴ万博
電気の活用
【コラム】鳳凰殿
これまでの万博でも、日本は茶店や神殿を設置して日本文化の宣伝に努めていたが、シカゴ万博ではじめて、本格的な日本館を建築した。それは平等院鳳凰堂をモデルとし、「鳳凰殿」と名付けられた。平安中期(藤原)・室町(足利)・江戸(徳川)の各時代を表現した三棟の建物を造り、日本の歴史の長さを強調した。
シカゴ万博は従来の万博よりも規模が大きく、またアメリカは日本にとって最大の輸出国であった。当時の『臨時博覧会事務局報告』等の資料からは、万博参加の目的として、自国文化の品位の高さを示し風俗慣習を広く知らしめ、中国との違いを明らかにして一国としての存在感を示す、といった国威発揚や日本製品の輸出拡大が意図されていた事情がうかがえる。
設計は、イギリス人建築家コンドル(J. Conder)の弟子である久留正道が担当した。鳳凰殿は、西洋建築を学んだ建築家の設計によるもっとも早い伝統的な日本建築である。また、臨時博覧会事務局関係者として九鬼隆一、岡倉覚三(天心)といった美術界の大物も携わっていた。室内装飾は東京美術学校が担当し、美術・調度品は帝国博物館が選定した。これまでの万博のように当時の日本の品物をただ並べるのではなく、日本美術史の流れに沿って各時代を再現することに力点がおかれていたことも、彼らが再発見した日本美術への誇りの表れと言えるだろう。
一方、開催国のアメリカ側には、ヨーロッパで開かれてきた万博への強い対抗意識と当時の政治経済情勢から、日本をアメリカの盟友としてアピールする目的があった。そのためなのか、鳳凰殿は会場の一等地である'Wooded Island'に配置された。
建物は建築中から評判が高く、人々が殺到して工事が妨げられることもあったようだ。万博開幕後もさらに評判は高まり、会場を訪れた多くの人々がエキゾチックで優雅な建物だったという評を残している。ライト(F. L. Wright)がこの鳳凰殿に影響を受けたことも有名である。鳳凰殿のほかにも茶室が出店され、調度品から食器に至るまで日本製品を日本から運び込んで使用し、店員も和服を着用した日本人が勤め、話題を呼んだ。しかし、万博閉幕後、鳳凰殿は他の建築物と同様に火事で消失。その跡地は現在、シカゴの姉妹都市である大阪の名前を取って'Osaka Garden'と呼ばれる日本庭園となっている。
- 参考文献:
黒川直樹 「1893年シカゴ世界博覧会における日本館「鳳凰殿」の敷地供与について」 (『学術講演梗概集 F』 1999.9 <Z43-781>)
三島雅博 「鳳凰殿の形態とその成立要因について」 (『日本建築学界計画系論文報告集』 434号 1992.4 <Z16-107>)
三島雅博 「1893年シカゴ万国博における鳳凰殿の建設経緯について」 (『日本建築学界計画系論文報告集』 429号 1991.11 <Z16-107>)
『臨時博覧会事務局報告』 臨時博覧会事務局 1895 <YDM42219>
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