1867年第2回パリ万博

万博にも娯楽を

名称
:Exposition Universelle
開催期間
:1867年4月1日~10月1日
場所
:パリ(シャン・ド・マルス)
入場者数
:906万3,000人(有料での入場者のみ)

第2回パリ万博は、産業の組織化を唱えたサン・シモン主義者であるル・プレー(P. G. F. Le Play)が万博の組織委員長、シュヴァリエ(M. Chevalier)が国際審査委員会の議長に任命された。第二帝政に強い思想的影響力を及ぼしていたサン・シモン主義者たちによって統括されたこの万博は、第二帝政の象徴とも言われた。また、この万博は、ナポレオン三世によるロンドン万博への挑戦として人々の注目を集めていた。

1863年6月、ナポレオン三世から万博開催の勅令が下り、万国博覧会の開催が決定された。会場には、シャン・ド・マルスの14万6,000平方メートルという広大な敷地があてられることになった。ここに、中央の温室庭園を囲んで7つの回廊が同心円状に広がる巨大な楕円形の展示会場が建設された。それぞれの回廊は特定の展示部門に対応しており、内から芸術作品、文化教養(リベラル・アーツ)関係品、家具、...と並び、6番目の最大の回廊には機械工業関係が展示されていた。また、円の中心から放射状に、展示品が国別に並べられていたため、円の中心から(あるいは中心に向って)通路を歩けば、その国の出展品をまとめて見ることができた。そしてメイン会場の外周には100軒を超える各国の展示会場、売店や遊園地、レストランなどが立ち並び、人気を博した。こうしたアイデアは第2回パリ万博が最初の試みであったが、娯楽施設を設置した明るいお祭り雰囲気の万博は、その後の万博のモデルとなった。出品者数は6万、入場者数は906万人と1851年の第1回ロンドン万博を凌ぐものとなり、成功を収めた。

また、この万博では、ジーメンス(Siemens)社による電動機、発電機、エドゥー(L. Edoux)による水圧式エレベータといった機械、クルップ(Krupp)社の大砲などの武器が大きな注目を集めた。中でも水圧式エレベータは、会場屋上まで昇ることができ、会場の俯瞰風景を楽しむことができた。

なお、この万博は日本が初めて正式に参加しており、幕府、薩摩・佐賀両藩が出品した。日本からの出展品は珍しがられ、いわゆるジャポニスムの契機となった。

参考文献:

鹿島茂 『絶景、パリ万国博覧会』 小学館 2000 <D7-G51>
平野繁臣 『国際博覧会歴史事典』 内山工房 1999 <D7-G26>
吉見俊哉 『博覧会の政治学』 中央公論社 1992 <D7-E89>
Finding, J. E., Pelle, K. D. ed.: Historical dictionary of world's fairs and expositions, 1851-1988 (Greenwood Press, 1990) <D7-B3>