1855年第1回パリ万博
ナポレオン三世の野心
- 名称
- :Exposition Universelle des Produits de l'Agriculture, de l'Industrie et des Beaux-Arts de Paris 1855
- 開催期間
- :1855年5月15日~11月15日
- 場所
- :パリ(シャンゼリゼ)
- 入場者数
- :516万2,000人(有料での入場者のみ)
フランス初の万国博覧会。1851年の第1回ロンドン万博に対抗し、それまでの内国博覧会を中止しての開催である。同時期にクリミア戦争(1854-1856)が勃発したが、皇帝ナポレオン三世の強力な支持で進められた。皇帝は万博によって帝政の正当性を誇示し、政治基盤を強化することを企図していた。また、万博を主導した経済学者シュヴァリエ(M. Chevalier)、ル・プレー(P. G. F. Le Play)らは社会を科学的、実証的にとらえるサン・シモン主義者であり、万博を通じてフランス産業の国際的競争力の向上や自由貿易の促進を考えていた。
シャンゼリゼに建設した産業館は幅108m、長さ250m、高さ35mと、ロンドン万博の水晶宮の半分に満たない大きさだったため、宝飾品は隣接する円形会場(ロトンド)に収容された。セーヌ川沿いに設けた長さ1,200mの機械館(アネックス)には工業製品を展示し、労働者への実物教育という観点から、蒸気機関車、蒸気船等の大型機械が実際に稼動している様子を見ることができるようになっていた。その他、初めて本格的な美術展示をモンテーニュ大通りの独立したパビリオンで行い、海外植民地の文物展示を大規模化するなどの新機軸を打ち出した。
参加国25カ国、出展品5万点に及び、11月15日の褒章授与式では合計1万1,000人の出展者にメダルが授与された。例えば後の大企業シンガー(Singer Sewing)社のミシンが金メダルを受賞している。
経営的にみると、来場者数は516万人とロンドン万博を約88万人も下回り、総計830万フランの赤字に終わった。しかし政治的にはイギリスのヴィクトリア女王夫妻が万博に来訪し、第二帝政を正式に認知させることに成功したといえる。加えて、万博を通じて首都パリの政治、経済、文化的優位性が強く国際社会にアピールされる結果となった。
- 参考文献:
鹿島茂 『絶景、パリ万国博覧会』 河出書房新社 1992 <D7-E90>
久島伸昭 『「万博」発明発見50の物語』 講談社 2004 <D7-H45>
平野繁臣 『国際博覧会歴史事典』 内山工房 1999 <D7-G26>
吉見俊哉 『博覧会の政治学』 中央公論社 1992 <D7-E89>
Finding, J. E., Pelle, K. D. ed.: Historical dictionary of world's fairs and expositions, 1851-1988 (Greenwood Press, 1990) <D7-B3>