1873年ウィーン万博

明治政府初参加

【コラム】佐野常民とウィーンの日本人

この時、日本からウィーン万博に派遣された人々の数は官員・通訳・技術伝習生・御雇外国人・展覧会場建設要員をあわせると、総勢100名に近くにのぼる。このコラムではウィーン万博に参加した日本人にスポットをあてて紹介してゆく。

後に、博覧会事務局副総裁となる佐野常民はウィーン万博に参加するにあたって、その目的を5つにまとめ、1872(明治5)年6月に明治政府に提出した。その内容は

  1. 日本国内で生産される上質な物産と製品を収集・展示し、日本国が豊穣な国土を持ち、優秀な製品を生産できるということを海外諸国に対してアピールする。
  2. 海外各国の展示品と最先端の技術を詳細に調査し、その技術を学び、日本へ持ち帰ることによって日本の技術水準を高める。
  3. 国内の物産を収集することにより、学芸の進歩のために不可欠である博物館の建設を計画する。
  4. 日本国内の上質な物産と製品が海外諸国の耳目を集め、輸出産業の充実につながるようにする。
  5. 海外諸国の出展品の原価と販売価格を調査することにより、海外諸国が求めている品々を把握し、貿易の際の基礎資料とする。

となっている。これは、佐野常民自身が1867(慶応3)年のパリ万博に佐賀藩の担当として参加した経験に基づいているといわれている。

海外の先端技術を学ぶことを目的とし、技術伝習生として派遣された24名は、明治政府が専門家および実際の生産者に参加を呼びかけた各分野のプロとその後継者達であった。名簿をみると20代の若者も多く含まれていることがわかる。博覧会場で海外諸国との技術力の差にショックを受けたのか、官員として派遣されながらも伝習生に転向した者や、会期終了後もヨーロッパにとどまり技術を学んだ者も多く、海外諸国の技術を日本へ持ち帰ろうと意欲的に取り組んでいたことがわかる。帰国した伝習生達はその後優れた実績をあげた者も少なくない。

またウィーン万博会期中の6月3日には岩倉具視を特命全権大使とする遣米欧使節団(木戸孝允・大久保利通・伊藤博文も加わっていた)がウィーンに到着し、4日間にわたって博覧会を視察し、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝にも謁見している。その内容は使節団の一員であった久米邦武が記した『特命全権大使米欧回覧実記』に詳細に記述されている。

貿易拠点としての万博にも目をむけてみよう。日本商品の販売担当としてウィーンに渡った松尾儀助や、東京での販売用物品の買取の任務を行い、同じくウィーンで物品販売の担当となった東京の道具商であった若井兼三郎(彼は実費でも漆器等を購入し、それらもまとめてウィーンで販売している)などの活躍によって,博覧会場での即売は好評であった。

そして、11月の会期終了後には、屋外展示物の神社と庭園の建物・木石など一式のイギリス商社による買取りの契約や、ウィーンの商人との間で日本商品の販売契約など、博覧会後の貿易に関する引き合いが相次いだ。そこで現地での契約交渉を委託され、帰国後に正式に承認され、物品の輸出業務を行う半国営の商社「起立工商会社」が設立された。この商社は明治時代前半の日本の輸出貿易において大きな役割を果たし、日本の工芸品をヨーロッパで売ることで外貨獲得に貢献した。また、この当時、すでに名古屋の七宝会社や陶磁器メーカー、商社などが欧米の引き合いに応じて欧米向けに商品を製造、輸出しており、このころから日本製品が本格的に海外に輸出されるようになった。

(※このコラムの日付の表記は、1872(明治5)年までは旧暦、1873(明治6)年から新暦を基準にしている。)

参考文献:

博覧会事務局編 『澳国博覧会筆記』 1873 (『明治文化全集』経済編(日本評論社1929)収録 <特18-698>)
博覧会事務局編 『博覧会見聞録』 1874 (『明治文化全集』経済編(日本評論社1929)収録 <特39-322>)
博覧会事務局編 『澳国博覧会報告書』 1875 <特39-323>