国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

1870年代の日記より

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主なできごと

1871年1月18日
ドイツ帝国成立
1871年12月23日
岩倉使節団出発
1872年10月4日
富岡製糸場開業
1873年1月1日
改暦(太陽暦採用)
1873年1月10日
徴兵令制定
1873年9月13日
岩倉使節団帰国
1873年10月24-25日
征韓派参議辞職
1874年1月17日
民撰議院設立建白書
1875年4月14日
漸次立憲政体樹立の詔
1877年2月15日
西南戦争(-9月24日)

明治3年9月17日(1870年10月11日)

渡仏の洋上での想い  海外
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揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。

明治3年10月17日(1870年11月10日)

お雇い外国人と契約 
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一、仏人[フランス人]ブリユナ並同国書記ジフスケ民部省に来る。取建方雇入方約定書加除談判。大木民部大輔、玉野民部権大丞、渋沢大蔵少丞、杉浦地理権正。

明治3年閏10月17日(1870年12月9日)

工場建設に向けて富岡を見分 
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晴。地勢見分の為、富岡分内巡行す。七日市境西北隅高敞の地、屋敷跡地最寄、風気宜敷趣に付凡治定す。この地崖下鏑川にて水平より高さ拾三間余あり。東南漸く低て平田となる。地味は下等なり。麦作の間毎々桑を栽ゆ。毎畝同じといえども桑の出来宜しからず、桑代一ケ年一反に付金五両位より三両位迄にて、作価は金二両二分位のよし。

明治5年9月18日(1872年10月20日)

あるロシア人の訪問  海外
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夕景一人の魯西亜人[ロシア人]来る。よく日本を解す。その内に同行せん事を乞ふ。因て同車にて行き、夜八字[八時]帰る。この人は仏[フランス]にて我語を学びたりとて、よく字を読む。我も大に弁を得たり。故に一字づゝ互に教ゆる事を約す。

明治5年12月2日(1872年12月31日)

太陰暦よ、さようなら 
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太陰暦、以此日為結尾。[太陰暦、この日をもって結尾とす。]

明治6(1873)年2月27日

日清修好条規に向けた副島の清国派遣  外交
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外務卿副島種臣をもって特命全権大使と為し、清国に派遣せしむ。大丞柳原前光、少丞平井希昌、訳官鄭永寧をしてこれに属す。

明治6(1873)年3月10日

ドイツで動物園、水族館を見物  海外
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午飯後、禽獣園に遊び、夜鳥魚館に往く。

明治6(1873)年3月11日

ドイツ宮殿での皇帝一家への謁見  外交 海外
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謁見の席において帝並にビスマルク両人、次室に軍官宮内の官員等排列す。双方演説終り、また皇后に謁す。宮女四五名侍席す。午後、各省長官各国大使等へ名刺を投す。夜戯場に遊す。

明治6(1873)年8月27日

ウィーンで目にとまったものは  海外
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この〔ウィーン〕府の目に留まるものは、美婦にして至処美人あらざるはなし。しかして多くは上郎と云ふ。実にこの府の繁花を知るべし。

明治6(1873)年12月25日

フランスでのクリスマス  海外 クリスマス
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今日耶蘇[ヤソ]降生日なりとて客来在りて休業なり。

明治10(1877)年2月12日

太政官出仕時代 
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出勤。本局書記官連中と上野三河亭に会す。

明治10(1877)年2月20日

熊本城下の惨禍 西南戦争
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午後、賊軍川尻駅熊本より二里に著[あらわ]す。昨日鎮台の出火より引続熊本市中は炎焔天に漲[みなぎ]り、要衝にある架橋は鎮台より破壊し、人民は難を避[さけ]んとて東奔西走、実に目視するに忍びざる景況なり。

明治10(1877)年2月21日

樺山負傷、与倉戦死 西南戦争
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賊兵熊本に進み、城の四方に迫り攻撃この日小銃のみ。我兵大小砲をもってこれに応ず。藤崎口城の西南、戦もっとも烈し、賊の七番隊長宇都宮良左衛門を打取。この日樺山中佐、与倉中佐銃創を被[こうむ]る。与倉は病院にて死。

明治10(1877)年2月26日

春眠を覚ます砲撃  西南戦争
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○十九日より今日に至迄、城の四面炎焔絶へず。○夜城中にて煙花数発を揚げて、春眠を覚ます。

明治10(1877)年3月1日

兵卒斉藤弥七、奇跡の生還 西南戦争
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去月二十二日の戦に台兵藤崎より賊兵を進撃するの際、兵卒斉藤弥七なる者の行衛[行方]を知らず。皆以為[おもえら]く必賊丸に中[あた]りて死せりと。その屍を探せども得ず。しかるに本日に至り、藤崎の麓より仰いで麾[さしまね]くものあり。台兵もって賊とし一丸を発[はな]つ。中[あた]らず。猶麾[さしまね]いて止[や]まず。依て台兵その傍に至りこれを見れば、則先きの斉藤某にて頬部及び足脛を射徹され、白昼動くときは賊に認められん事を恐れ菰[こも]を冐[かぶ]りて静に伏し、夜は間を伺ひ僅に匍伏[ほふく]し、八日を経て終[つ]ひに帰営せり。その間固[もと]より一飲食を為さず。疲労甚しと雖[いえども]、八日間の艱苦[かんく]を物語せり。

明治10(1877)年3月13日

段山(だにやま)の戦い 西南戦争
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昨日午後五時より段山[だにやま]攻撃を始め、本日午後三時に至り、賊兵敗走す。この戦や開戦已来[いらい]の大激戦にて、現に賊屍の戦跡に在[あ]る者百余。

明治10(1877)年9月24日

西南戦争の終了  西南戦争
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払暁第四字[四時]、各旅団よりニ中隊づゝをもって進撃するに、僅か一字間[一時間]余の戦ひに巨魁悉く斃[たお]れ、七字[七時]過に至て全く戦ひ終る。午後大に雨降る。

明治10(1877)年12月29日

赤間神宮への奉仕
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赤間宮へ初て奉仕、社務所にて先客笠原南野その外と会話す。

明治11(1878)年7月29日

憎い南京虫の攻撃  海外
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燭をもって枕を検ずるに、果して「ワンドロイス」歩き居るを見て急ぎこれを殺し、しかる后寝に就く。時に既に三時頃たり。やや久しくして夢甚煩悩なり。醒て見れば両瞼ホゝと腮[あご]のところを更に三、四ヶ所刺され居たり。予怒に堪へ兼ぬれども「ワンドロイス」のあるを見ず。

明治11(1878)年8月13日

韃靼人に話しかけられる 
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見物人中に韃靼人[ダッタン人]あり。邑[ゆう]名を「カインスク」と云ふ。韃人尤も我等を奇として近付来て、頻[しきり]に物を言欠けたり。是れその面顔の相近きによるなるべし。

明治11(1878)年8月23日

シベリアで写真を集める  海外
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十時半、予は当府の写真を買ふため、寺見生と同車して先発す。日耳曼人[ゲルマン人]の写真師某の家にて二枚を買入たり。

明治11(1878)年9月2日

国境の街、買売城の訪問  海外
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午後一時「コミサル」と同車にて、支那領売買城[マイマツチン]に入り、支那の首長を訪ふ。支那と「キャクタ」町家の境は、僅[わずか]に五十尺(サーゼン)の中立地あるのみ。故に恰[あたか]も一府の如し。

明治11(1878)年9月18日

鎮台の歓迎セレモニー  海外
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さて鎮台の邸に至れば、鎮台は庁前の戸外に出て予を迎へ陸軍楽隊は庁前に並立つ。予が鎮台と共に戸に入りしとき楽起れり。客間に入れば、当府の文武官并二十四五人ばかり一切に駢立[べんりつ]せり。鎮台は一々予に引合せり。

明治11(1878)年9月20日

鱗(ウロコ)談義 海外
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予かねてこの魚の必ず北海道石狩「テシホ[天塩]」等河にも在るべきを思ひ居たるにより、その形を熟視し、かつ背筋通り三条の鱗を数へしに、一条ごとに三十五個ありたり。

明治12(1879)年2月23日

太宰府で名物の餅を食べる 
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大宰府に遊び、梅を看る。梅の香餅を喰ふ。

明治12(1879)年8月7日

前米国大統領グラントと芝離宮  外交
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有栖川宮より芝離宮において、クラント氏の為夜会。

明治12(1879)年8月31日

大正天皇の誕生 
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柳原愛子分娩。皇子御降誕。

明治12(1879)年9月6日

愛国社大会延期  疫病
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后三時、帰宿。小時あり、大坂愛国社より左の報答あり。本社恒会の儀は、本月十日より開場致すべきのところ、方今各地悪疫流行の際に会し、付ては出会するに困難の向も往々これ有る由に付、十一月一日迄延期致候。この段御報のみ。匆々

明治12(1879)年9月25日

片岡健吉を訪問 
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三時半、中島町片岡健吉氏を訪へして、折悪来客あり、用談中なれば拝眉を得がたし、甚だ不礼の次第なれども明夕景重て来訪を乞はんと。因て明夕を期して去る。

明治12(1879)年11月6日

愛国社大会開催 
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本日より愛国社開会日なるをもって建議を書し、午前第十時議場に出る。この日発会日なるが為め議長、幹事、書記の撰挙、議員の番号抽籤等をなす。