明治3年9月17日(1870年10月11日)
渡仏の洋上での想い
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揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。
明治3年9月17日(1870年10月11日)
揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。
明治3年10月17日(1870年11月10日)
一、仏人[フランス人]ブリユナ並同国書記ジフスケ民部省に来る。取建方雇入方約定書加除談判。大木民部大輔、玉野民部権大丞、渋沢大蔵少丞、杉浦地理権正。
明治3年閏10月17日(1870年12月9日)
晴。地勢見分の為、富岡分内巡行す。七日市境西北隅高敞の地、屋敷跡地最寄、風気宜敷趣に付凡治定す。この地崖下鏑川にて水平より高さ拾三間余あり。東南漸く低て平田となる。地味は下等なり。麦作の間毎々桑を栽ゆ。毎畝同じといえども桑の出来宜しからず、桑代一ケ年一反に付金五両位より三両位迄にて、作価は金二両二分位のよし。
明治5年9月18日(1872年10月20日)
夕景一人の魯西亜人[ロシア人]来る。よく日本を解す。その内に同行せん事を乞ふ。因て同車にて行き、夜八字[八時]帰る。この人は仏[フランス]にて我語を学びたりとて、よく字を読む。我も大に弁を得たり。故に一字づゝ互に教ゆる事を約す。
明治5年12月2日(1872年12月31日)
太陰暦、以此日為結尾。[太陰暦、この日をもって結尾とす。]
明治6(1873)年2月27日
外務卿副島種臣をもって特命全権大使と為し、清国に派遣せしむ。大丞柳原前光、少丞平井希昌、訳官鄭永寧をしてこれに属す。
明治6(1873)年2月28日
新聞紙貸覧処に過新聞雑誌を看。
明治6(1873)年3月10日
午飯後、禽獣園に遊び、夜鳥魚館に往く。
明治6(1873)年8月27日
この〔ウィーン〕府の目に留まるものは、美婦にして至処美人あらざるはなし。しかして多くは上郎と云ふ。実にこの府の繁花を知るべし。
明治8(1875)年6月11日
午後書籍館に行、民間雑誌評論新説を読む。
明治10(1877)年2月12日
出勤。本局書記官連中と上野三河亭に会す。
明治10(1877)年2月20日
午後、賊軍川尻駅熊本より二里に著[あらわ]す。昨日鎮台の出火より引続熊本市中は炎焔天に漲[みなぎ]り、要衝にある架橋は鎮台より破壊し、人民は難を避[さけ]んとて東奔西走、実に目視するに忍びざる景況なり。
明治10(1877)年2月21日
賊兵熊本に進み、城の四方に迫り攻撃この日小銃のみ。我兵大小砲をもってこれに応ず。藤崎口城の西南、戦もっとも烈し、賊の七番隊長宇都宮良左衛門を打取。この日樺山中佐、与倉中佐銃創を被[こうむ]る。与倉は病院にて死。
明治10(1877)年2月26日
○十九日より今日に至迄、城の四面炎焔絶へず。○夜城中にて煙花数発を揚げて、春眠を覚ます。
明治10(1877)年3月1日
去月二十二日の戦に台兵藤崎より賊兵を進撃するの際、兵卒斉藤弥七なる者の行衛[行方]を知らず。皆以為[おもえら]く必賊丸に中[あた]りて死せりと。その屍を探せども得ず。しかるに本日に至り、藤崎の麓より仰いで麾[さしまね]くものあり。台兵もって賊とし一丸を発[はな]つ。中[あた]らず。猶麾[さしまね]いて止[や]まず。依て台兵その傍に至りこれを見れば、則先きの斉藤某にて頬部及び足脛を射徹され、白昼動くときは賊に認められん事を恐れ菰[こも]を冐[かぶ]りて静に伏し、夜は間を伺ひ僅に匍伏[ほふく]し、八日を経て終[つ]ひに帰営せり。その間固[もと]より一飲食を為さず。疲労甚しと雖[いえども]、八日間の艱苦[かんく]を物語せり。
明治10(1877)年3月13日
昨日午後五時より段山[だにやま]攻撃を始め、本日午後三時に至り、賊兵敗走す。この戦や開戦已来[いらい]の大激戦にて、現に賊屍の戦跡に在[あ]る者百余。
明治10(1877)年9月24日
払暁第四字[四時]、各旅団よりニ中隊づゝをもって進撃するに、僅か一字間[一時間]余の戦ひに巨魁悉く斃[たお]れ、七字[七時]過に至て全く戦ひ終る。午後大に雨降る。
明治10(1877)年12月29日
赤間宮へ初て奉仕、社務所にて先客笠原南野その外と会話す。
明治11(1878)年7月29日
燭をもって枕を検ずるに、果して「ワンドロイス」歩き居るを見て急ぎこれを殺し、しかる后寝に就く。時に既に三時頃たり。やや久しくして夢甚煩悩なり。醒て見れば両瞼ホゝと腮[あご]のところを更に三、四ヶ所刺され居たり。予怒に堪へ兼ぬれども「ワンドロイス」のあるを見ず。
明治11(1878)年8月13日
見物人中に韃靼人[ダッタン人]あり。邑[ゆう]名を「カインスク」と云ふ。韃人尤も我等を奇として近付来て、頻[しきり]に物を言欠けたり。是れその面顔の相近きによるなるべし。
明治11(1878)年8月23日
十時半、予は当府の写真を買ふため、寺見生と同車して先発す。日耳曼人[ゲルマン人]の写真師某の家にて二枚を買入たり。
明治11(1878)年9月2日
午後一時「コミサル」と同車にて、支那領売買城[マイマツチン]に入り、支那の首長を訪ふ。支那と「キャクタ」町家の境は、僅[わずか]に五十尺(サーゼン)の中立地あるのみ。故に恰[あたか]も一府の如し。
明治11(1878)年9月18日
さて鎮台の邸に至れば、鎮台は庁前の戸外に出て予を迎へ陸軍楽隊は庁前に並立つ。予が鎮台と共に戸に入りしとき楽起れり。客間に入れば、当府の文武官并二十四五人ばかり一切に駢立[べんりつ]せり。鎮台は一々予に引合せり。
明治11(1878)年9月20日
予かねてこの魚の必ず北海道石狩「テシホ[天塩]」等河にも在るべきを思ひ居たるにより、その形を熟視し、かつ背筋通り三条の鱗を数へしに、一条ごとに三十五個ありたり。
明治12(1879)年2月23日
大宰府に遊び、梅を看る。梅の香餅を喰ふ。
明治12(1879)年8月7日
有栖川宮より芝離宮において、クラント氏の為夜会。
明治12(1879)年8月31日
柳原愛子分娩。皇子御降誕。
明治12(1879)年9月6日
后三時、帰宿。小時あり、大坂愛国社より左の報答あり。本社恒会の儀は、本月十日より開場致すべきのところ、方今各地悪疫流行の際に会し、付ては出会するに困難の向も往々これ有る由に付、十一月一日迄延期致候。この段御報のみ。匆々
明治12(1879)年9月25日
三時半、中島町片岡健吉氏を訪へして、折悪来客あり、用談中なれば拝眉を得がたし、甚だ不礼の次第なれども明夕景重て来訪を乞はんと。因て明夕を期して去る。
明治12(1879)年11月6日
本日より愛国社開会日なるをもって建議を書し、午前第十時議場に出る。この日発会日なるが為め議長、幹事、書記の撰挙、議員の番号抽籤等をなす。