明治33(1900)年8月18日
海軍経由で知った北京陥落
事件 詳しく
十時参部、北京を取りたる電信海軍え達す。去十五日夕刻と云事なり。未だ陸軍には何たる報知も来らず。
明治33(1900)年8月18日
十時参部、北京を取りたる電信海軍え達す。去十五日夕刻と云事なり。未だ陸軍には何たる報知も来らず。
明治33(1900)年9月19日
風邪気分にて出勤せず。海軍大臣の招きには致方なく行けり。
明治34(1901)年1月15日
流行感冒なりとて熱度あり。終日床上に臥す。今日より始[はじまら]んと、五十日間には人にも面会せず。一時は肺炎になり、熱度も四十度近く上れり。この間の日記を休む。
明治35(1902)年2月15日
日英同盟成立の為め英公使館を訪ひ祝す。又清国公使蔡鈞を訪談話。外務小村、総理桂の官舎を叩く。
明治36(1903)年9月1日
午后暫時睡眠の後、入浴して野花の間を快游し、三時頃万平ホテルに赴き、紅茶を喫して帰る。このホテルは十年前より営業する者、山に拠り風光佳絶たり。この日曇天、夜に入り雷雨あり。声山谷に反響して、天地為めに震動せり。
明治36(1903)年9月2日
昨日報知新聞に、露[ロシア]軍の唱する日本討伐軍歌なるものを訳載せるを読む。
明治40(1907)年1月1日
一日、晴。八時祝膳に就く。柳子次郎定子四郎茂章皆な揃ふ。是れ次郎の就官以来始てなり。柳子神拝に出で、次郎は年賀に出づ。余は所労に付、全日在宅。
明治40(1907)年2月9日
星ヶ岡茶寮にて催せる謡会に出席す。会員は貴族院議員の好謡家をもってす。盛会なり。…名して聚星会とす。
明治40(1907)年8月19日
英国宣教医グレーを訪ふ。午睡中にて面会せず。氏は、十五年前余が単騎遠征の途次、この地に来りし時の旧相識なり。彼は団匪[だんぴ]の変、家を焼かれ、家財を奪はれ、身をもって浦港[ウラジオストク]に逃れしも、事収ればまた旧の如し。その忍耐感ずべし。
明治41(1908)年5月16日
新築東宮御所拝覧、壮麗人目を驚かす。
明治42(1909)年10月26日
暫くして電話あり。事実らしく思はる。これより参謀本部に行き、取調らぶと。余もまた心に掛るをもって、車を命じて陸軍大臣を訪ふ。後藤新平、大島健一あり。始めて事実を詳[つまび]らかにす。今朝九時、哈爾賓[ハルビン]停車場において、韓人四五名に扭撃せられ、二重傷を蒙[こうむ]り十一時薨去せり。