国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

1900年代の日記より

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主なできごと

1900年9月15日
立憲政友会結成
1902年1月30日
日英同盟協約調印
1904年2月10日
日露戦争(ロシアに宣戦布告)
1905年9月5日
ポーツマス条約調印
1905年12月21日
伊藤博文、初代韓国統監就任
1909年10月26日
伊藤博文、ハルビンで暗殺される

明治33(1900)年8月18日

海軍経由で知った北京陥落  事件
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十時参部、北京を取りたる電信海軍え達す。去十五日夕刻と云事なり。未だ陸軍には何たる報知も来らず。

明治33(1900)年9月19日

風邪でも海軍大臣の招きは断れない 
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風邪気分にて出勤せず。海軍大臣の招きには致方なく行けり。

明治34(1901)年1月15日

大山の病休  疫病
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流行感冒なりとて熱度あり。終日床上に臥す。今日より始[はじまら]んと、五十日間には人にも面会せず。一時は肺炎になり、熱度も四十度近く上れり。この間の日記を休む。

明治34(1901)年11月10日

駐清公使夫人として赴任  外交 海外
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北京日本公使館 This day left 天津 at 9, came to Peking 1. 30. p.m. Not having had lunch ate our noon meal at about 4. Bagages arrived in the evening.

明治35(1902)年2月15日

日英同盟 成立 外交
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日英同盟成立の為め英公使館を訪ひ祝す。又清国公使蔡鈞を訪談話。外務小村、総理桂の官舎を叩く。

明治36(1903)年9月1日

軽井沢で遅めの静養 
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午后暫時睡眠の後、入浴して野花の間を快游し、三時頃万平ホテルに赴き、紅茶を喫して帰る。このホテルは十年前より営業する者、山に拠り風光佳絶たり。この日曇天、夜に入り雷雨あり。声山谷に反響して、天地為めに震動せり。

明治36(1903)年9月2日

報知新聞で知ったロシアの日本討伐軍歌 図書館・読書
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昨日報知新聞に、露[ロシア]軍の唱する日本討伐軍歌なるものを訳載せるを読む。

明治37(1904)年3月20日

韓国皇帝より大勲位を賜る  日露戦争 海外
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三時半、九成軒[グソンホン]において、韓国皇帝陛下及皇太子殿下に内謁見を為す。同時に林特命全権公使もまた公使館員を率ひて参内、同所において内謁見を為せり。その際大使には皇帝陛下より大勲位金尺大綬章[だいくんいきんしゃくだいじゅしょう]の御親授あり。それより皇帝は一時間余大使と御懇談あり。

明治38(1905)年1月1日

元旦、旅順の敵将降伏の報あり 日露戦争 正月
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午前十一時、将校始め奏任官年首の祝儀を述ぶる為め来訪。午後二時、第二軍外国従軍武官一同是又新年祝儀を述べたり。終りて日本流のトソ酒肴を出し宴会を開き、十二分の喜びを尽して夜に入て帰れり。時に午後三四時頃旅順より電報あり、望台を占領せりと。その後続て好報あり、午後十時に到り敵将ステツセール[Анатолий Михайлович Стессель]より開城の申込みありたるとの事なり。それより再び将校以上集会し、盛かんに陛下の万歳を唱へ、兵卒に到る迄皆集り、軍歌をうとうて天地も倒るばかり盛会なりし。

明治40(1907)年1月1日

久しぶりの全員集合の正月  正月
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一日、晴。八時祝膳に就く。柳子次郎定子四郎茂章皆な揃ふ。是れ次郎の就官以来始てなり。柳子神拝に出で、次郎は年賀に出づ。余は所労に付、全日在宅。

明治40(1907)年2月9日

貴族院議員の院外交流 
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星ヶ岡茶寮にて催せる謡会に出席す。会員は貴族院議員の好謡家をもってす。盛会なり。…名して聚星会とす。

明治40(1907)年8月19日

旧知の宣教医を訪ねる  海外
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英国宣教医グレーを訪ふ。午睡中にて面会せず。氏は、十五年前余が単騎遠征の途次、この地に来りし時の旧相識なり。彼は団匪[だんぴ]の変、家を焼かれ、家財を奪はれ、身をもって浦港[ウラジオストク]に逃れしも、事収ればまた旧の如し。その忍耐感ずべし。

明治41(1908)年5月16日

壮麗な赤坂御所 
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新築東宮御所拝覧、壮麗人目を驚かす。

明治42(1909)年10月26日

伊藤博文暗殺の知らせ  事件
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暫くして電話あり。事実らしく思はる。これより参謀本部に行き、取調らぶと。余もまた心に掛るをもって、車を命じて陸軍大臣を訪ふ。後藤新平、大島健一あり。始めて事実を詳[つまび]らかにす。今朝九時、哈爾賓[ハルビン]停車場において、韓人四五名に扭撃せられ、二重傷を蒙[こうむ]り十一時薨去せり。