嘉永7年1月25日(1854年2月22日)
黒船に乗ってきた人を見る
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為人皆、長身、而白肌緑眼、而高鼻短髪。[人となり皆、長身、白肌緑眼、高鼻短髪。]
嘉永7年1月25日(1854年2月22日)
為人皆、長身、而白肌緑眼、而高鼻短髪。[人となり皆、長身、白肌緑眼、高鼻短髪。]
安政5年7月初旬(1858年8月初旬)
当地にコレラと唱ふる伝染病流行、日々死するもの数百人なり。この疾を受るや吐しゃ烈しく数時間にして死するあり。未だ是を治するの薬方なしといへども、是を余[予]防するの法あり。蘭人[オランダ人]教師ポンぺ氏是を著して差出せり。この疾は始めて伝来せるにて古医も知るものなかりし。亜墨利加[アメリカ]船ポーハタンにて支那より伝来せりと云ふ。或は魯西亜[ロシア]船アスコルトより伝来せり抔との風評なり。市中の騒動大方ならず、悪魔を払ふと号し、鐘大鼓にて騒ぎ回り恰も祭礼の如し。
万延元年5月5日(1860年6月23日)
噴火山を東北に見、十時浦賀港に下碇す。聞くに、過る三月三日大老職井伊公登城の途、外桜田において浪士のため殺害せられ、午後浪士等攘夷を主張し、外国人を襲わんとするの催あるとし、騒然たりと。
文久2年8月2日(1862年8月26日)
快晴。風少く海面油を流せし如く、夕七ツ時御船当港出船、志州浦え向。夜中遠州灘え進む。この灘は兎角[とにかく]波立荒き所なれ共、風これ無きに付致て穏静。
文久2年11月19日(1863年1月8日)
前夜萩藩の士十三輩、横浜の異人を討たんとして、生麦村まで出張せしに、この秘密の暴挙を薩藩の士聞得て、土州の老侯に密告せしが、老侯この事を勅使に告られしに早々留むべきとのことを廟堂に達し、長州家に達命せられし故、長州の世子直に同所へ騎切、出張せられ、また土州の藩士も出張し理解して引留たりと。
文久3年1月17日(1863年3月6日)
早暁発足。千住定宿中田屋吉右衛門に着し、旅装相改め、大夫の駕に随従し到処繁華驚目、上野山下より八代洲河岸[やよすがし]を過、巳の半刻櫻田に着す。
文久3年1月23日(1863年3月12日)
大風雨、暁発。馬入川出水にて舟留に相成り、一時間ばかり路上に野陣。その後雨晴出船。
文久3年1月29日(1863年3月18日)
この大堰川は川源を信州に発し、南風の時は水俄に増し、西北風の時より落水、水色常に白色を帯びて濁るなり。遠駿の界川なり。渡頭古[いにしへ]より舟橋を用[い]ず、島田金谷より人夫を出し肩輿を用て旅人を渡す。川原開豁北岸より南岸迄十八町これ有り。
文久2年12月21日(1863年2月9日)
過午四時過頃Dolfijn[イルカ]一尾を釣る。…本邦豆相州辺にて「シイラ」と唱ふ者と全く同物の由、我水夫共等いゝあへり。
文久3年2月9日(1863年3月27日)
烈翁[ナポレオン]謫居[たっきょ]の時、この所に住し今を去る○終無き人の数に入たる所なり。
文久3年4月16日(1863年6月2日)
六時半スチュールボールドの方に当て、和蘭[オランダ]セーランドの内スコーウェンの地方を見る。■して水面を抜く事高からず。
文久3年6月8日(1863年7月23日)
高杉君、当家にて奇兵隊取立に相成、正一郎、廉作並井石綱右ヱ門、山本孝兵衛など入隊。
文久3年9月6日(1863年10月18日)
天の辻え御着陣。しかる処追々寄手紀州勢吹口より進、藤堂勢五条え本陣を構え、和田口より押し寄る。井伊勢下市え本陣を構え泥川道より進む。その外郡山高取など数千の大軍所々え屯陣[とんじん]罷在[まかりあ]り、迚[とて]も急に打破らん事六ケ舗故に、天の辻より二里斗[ばかり]北五條の方え進、ホクツキ[付箋北曽木の誤り]と云処要害の地に因て暫く対陣合戦し敵を悩まし、その都合によって打出んとの軍議にて、上田宗児、半田門吉、十津川鎮撫義兵招募の命を蒙[こうむ]り罷越[まかりこし]、婦人小供は安心して農事を助けて百姓は人夫外は他を顧みず農事出精を勧め、郷士の勇者は早々天の辻出陣の由申聞、頻りに周旋せり。
文久4年1月3日(1864年2月10日)
波穏に船平にして、始て蒸気の力を専にするを得たり。漸く薩の地方に近寄て航す。海門嶽[開聞岳]遙に波光潮煙の外に聳[そびえ]て、宛然月夜の芙蓉に似たり。眺望いと面白し。夜に入り風雨一並来り、天色昏黒枕上点滴に霑ふも苦し。
文久4年2月21日(1864年3月28日)
それより一巨寺に遊ぶ。市外阜上にあり、凍石を彫刻して柱梁とす。高さ凡十余丈もあるべく、上は金碧五彩熀燿目を眩し、下は凍石を舗き列[つら]ね、回廊水盤華■にして観るべし。是礼拝堂にて門口砲卒警衛せり。寺外より望めは市府一目了然にて、有名の巨塚人首の壮観も遥[はるか]に見えり。
慶応2年9月2日(1866年10月10日)
大願寺の書院にて長藩に会す。一新の御趣旨演達皆承伏、且云汝が賤士等境より出さしむるなかれ、あるいは歎願を口実として出るなかれ云々。
[慶応3年]年2月5日([1867年3月10日])
決極 ○大不仁を行ふて、大仁の基を立るの事。○干戈[かんか]を用ひずして、幕夷をひしぐの事。○干戈を用ひずして、六十六州を振[ふるは]せ六十六州大一新の事。
慶応4年1月11日(1868年2月4日)
初て伏見の顛末[てんまつ]を聞く。会津侯桑名侯ともに御供中にあり。その詳説を問はむとすれども、諸官唯青色、互に目をもってし、敢[あえ]て口を開らく者なし。
慶応4年3月13日(1868年4月5日)
戦と不戦と興と廃とに到りて、今日述るところにあらず、乞ふ、明日をもって決せむとすと云。
明治元年9月6日(1868年10月21日)
各藩兵結束して福島に会す。米沢本陳より坂蘭渓自ら諸陳を巡り、百方これを説諭し解兵せしむ。諸陣これを肯んぜず。蘭渓、人をして庭坂の本陳に告げ、各藩議論蜂起兵力をもってこれを脅すに非れば、制馭[せいぎょ]すべからず。急々見兵を尽して福島に至るべし。
明治2年5月22日(1869年7月1日)
野稿 青森旗亭記感 自捨身世呈飄零 怏々孤愁眠易醒 夜半下瞼時決眥 光寒一點北辰星。[自ら身を捨てて世に飄零[ひょうれい]を呈し、怏々[おうおう]として孤愁し眠り醒め易し。夜半瞼[まぶた]を下し、時に眥[まなじり]を決す、光寒くして一点の北辰の星]。
明治2年5月27日(1869年7月6日)
秋田領大館に宿。この地去冬南部と戦争の節、兵火に罹る。
明治2年6月9日(1869年7月17日)
昨夜大雨。今日道路甚悪し。 峠上秋田領と新庄領の境あり。院内峠越、及位村昼食。金山宿この間大峠二あり。すこぶる険岨なり。終日大雨にて歩行の人難渋す。